更新時の一言・・・大震災後

日付の新しい順です


平成23年5月1日 の分から


(20日 朝)ボーッとした状態でいるたぬきです。あの消臭の切り札がかなり効いていたのでその点では助かりました。床の上の荷物の片づけがもう少し進んで全面にきちんと撒けるようになればほとんど気にならないレベルになりそうです。さすが微生物の力。

この液体、水質環境問題等々に関心のある方々の一部にはよく知られている「えひめAI」と呼ばれているものです。そうしたことに関心の深い知り合いから数年前に作り方を教わりました。何度かは作ったのですが、気力が超低空状態になってからは仕込みをしないできてしまっていました。消臭だけではなくて、トイレや台所の頑固な汚れや、洗濯洗剤の補助などにも効き目大です。

ゆうべ、仕事から戻ってテレビをつけたら録画セットをしていたNHK番組で爆笑問題がホスピスを訪れているのを放送していたので疲れてはいましたが最初から観てみました。いろいろと発想の転換への示唆を与えられました。今度の月曜日の深夜(日付では火曜日の午前1時半から)に総合テレビで再放送があります。見逃した方はぜひ御覧ください。その番組の内容を紹介したNHKのホームページはこちらです。

(19日 朝)頭痛は何とか明け方頃には緩和しました。あと10分もしたら東京へ出かけます。今はまだ涼しいですが、日中は25度以上になるとか・・・・この前の消臭液が効いていていてくれるといいのですが・・・

「におい」は人間にとって過去の記憶を呼び覚ます強力なスイッチです。それが今の自分にとっては「懐かしさ」を呼び覚ましてくれるのではなく、4月23日のあの記憶を鮮やかに甦らせるものだからきつい・・・通常のフラッシュバックとの闘い以上に精神を一定の状態にキープする試練の一日になりそうです。

皆様は今週の晴れ間を大切に良い一日を!!!

(18日 午前)急激に涼しくなって体が冷えたせいか、朝から頭痛です。それでも今日は月に2回の「燃えないごみ」が出せる日なので早朝から押入れの片付け・・・祖父母のものをある程度片付けないと、居間などにあるものを片付けるスペースができません。仏間を来客用に速攻で片付けたために床の間のある部屋も完全に倉庫になってしまっているし・・・。

片付けの途中で裏にも行ったので今朝は孫ネコを撮りました。


児玉清さんの訃報・・・36歳だった娘さんの命を奪ったのと同じ「胃がん」・・・。このところずっと胃の調子をはじめ体調はいまひとつで食欲も低下中のタヌキも真面目に検査を受けたら同じようなものが体内のどこかで見つかる確率は決して低くはないでしょうね。

明日はまた東京へ行って妹や弟と一緒に母の住んでいた場所の片付けや、今後についての打ち合わせです。課題が山積しているので大変。普通ではない埋葬スタイルをとろうとするのは、例え故人の強い意志だからといっても容易なことではありません。(既にだいぶ違う流れで行っているので、それでもいろいろと習慣や世間とのあれこれに挟まれて相当まいっています)

(17日 朝)現実対応や例のフラッシュバックや余震への怯えが幾重にもなってイメージ世界が破壊されたまま再構築できないでいるのが様々なところから実感できます。その一つがあれほど欠かさず毎日みていた所謂「がきんちょ3人組」のみなさんのブログをなかなかチェックできないでいること。何だか遠い日々というか、今の自分とは違う世界になってしまったような感覚があります。それから養生している昼間の時間に時折観ていたジブリアニメ等々のものをほぼ全く観ないようになってしまっていること。「入れ替えアルバムコーナー」の更新も滞りがちだし、それから14日にみつけた子猫も、あの日以来はまだ見にいっていないし、もちろん写真も撮っていません。そんな気が湧いてこない・・・だから相変わらずほとんど料理も自分で作らず、食事も抜けがち。ますます活力が低下。

昨夜も震度1や2の余震が何度かあったのですが、ただでさえごく浅い眠りが揺れだす数十秒前、はっきりと目覚めます。そうすると大抵ちょっとしてからズンと揺れます。それがかなり弱いゆれでもすぐには浅い眠りにも付けず・・・だからおきている時にもどこか意識に空白がある感じで朦朧としていて・・・それが2ヶ月以上・・・。

住み慣れた水戸で表向きには大破しているわけではない家に住んでいてもかなり追い詰められている感覚になってしまっているのですから、本格的に被災した地域の方々や、慣れない他県などで避難生活を送られている方々の心身の状態は想像もできません。

独りでいるときにはつまらないことばかり想像してしまうことも多く、それだけに家庭教師などの時に若い世代と言葉を交わせるのは大きな救いです。対話をしているときには独りで居る時の反動でかなりハイテンションになってしまうこともあるので「先生、結構元気になってきたね」と言われることが出来る・・・まあ、こうして独りになった時にも逆に反動でより孤独感に襲われるのですが・・・でも、せめて他人と対話をしているときには生命感が出せているのは救いかもしれません。

これがやはり今後追い詰められた結果枯渇してしまうのか、生命感が「躍動感」と自覚できるようになるのかは全く未知。だからこそ「完全絶望」にはならなくて済んでいるわけですが・・・。

上原先生の師匠である折口先生は「教育は感染作用である」という名言を残されているのですが、今の自分にとっては教え子たちとのやりとりが最後の砦です。・・・その授業時数が昨年から激減しているから現実対応意識ばかりが刺激されて余計に深刻なんですが・・・。

(16日 朝)何とか無事にお寺に仮安置をすませてきました。戻ってきてからはせっかく片付けたのに結局誰もお参りに来ないでいた仏間に初めての客人として弟を迎え入れてしばし時間を過ごしました。

この画像は一昨日の天気雨の時に出た虹を渋滞中で動かなくなっている車の中から撮ったものです。


今回は母の意志で葬儀をしなかったり、今後本人が希望していた散骨を実現していく方向にする過程でのことで、今までの葬儀では経験しなかったような相反する様々な人たちの意見や心情などにこの数週間は揺さぶられ続けています。

そうしたことがある程度解消されて、これからの社会の現状にもあった新たな法事の前例となればと思いながら奔走しているのですが、この「天気雨」という相反する天気の中で生じる「虹」が推定四十九日の最終日に出たということには、あちらの世界からの応援があるような気がしました。

昨日も偶然ではあるのですが、それでも「必然?」と感じられることがいくつかあって・・・先の見えないことを何とか味方にできればと思っています。それこそ「想定外」があり得るから、常識的には絶望気分になりがちな物事も、もしかすると打開できるかも、という希望が持てるわけです。

(15日 朝)弟が8時半ころに電車で着く予定なので、それから一緒に遺骨を持って車でいわき市へ向かいます。昨日は天気雨が降ったり虹が出たりと普通ではない天気でしたが・・・今回の件に付随して沸きあがったもろもろのことも「晴れ」と「雨」という両極端をかけはしにして出る「虹」に象徴されるように人知を越えた領域への道しるべになってほしいと願っています。

たぬき、このところの心身共に追い詰められ、脳の中が空洞化しているような感覚でボケ(?)、その上ここしばらく続いている胃の弱った状態がゆうべからまたかなり悪化していて・・・とふんだりけったりです。長年胃の検診などは受けていませんが、もしかするともしかするとだったり・・・などということも考えますが、それでも医者に行かないのが我が家の血統です。母も3月28日の時点で地デジ関連での業者と電話で話していることが分かったのですが、その時にもかなり体調は悪化していたということを業者の方にもこぼしていて・・・その時点で救急車を呼ぶなりしていれば、多分今でも生きていたと思われます。でもその道は選ばなかった・・・私も似たような道を辿るのかな?????

そんな状態なので最近は裏の物置のあたりにも行かなかったのですが、昨日段ボールを片付けていて裏に行った際に、真ん中のネコ(入れ替えアルバムで現在紹介中の子猫が育ったメスです)が積んである段ボールの上の方からヒョイッとおりてきました。最近3匹の中で別行動をとっていることが多かったので、どうしたのだろうと思っていたのですが・・・。

その直後、かすかに別の鳴き声!!!少し高いところに置いたかごの中にうごめく生命体を確認!!!物蔭でよく見えなかったのでデジカメで手を伸ばして撮ってみると・・・アチャー!!!!


一挙に3匹です!!!この発見が母の四十九日にあるというのも何だかね・・・。

(14日 朝)今日は「推定四十九日」・・・推定命日が3月の27日なのでこうなっています。実は最近になって3月28日にも確実に生きていた証拠がみつかったのですが、もう公の書類などは27日を命日としてしまっているのでこれで統一することにしています。

明日は福島県にある父の実家近くにあるお寺に遺骨を預けに行くので、(こんな形ですが)母との暮らしは今日でお終いという節目。なので今朝は無類のコーヒー好きだったことにちなんでお茶と水だけではなくコーヒーも供えました。


コーヒーを入れている湯飲みは母が一人暮らしをしていたところの台所でみつけたもの。先日私が祭壇用に買ってきた桜絵柄のに似たものです。あとやはりその家から持ってきた小さな皿に盛ってあるのはヨーグルト。「ヨーグルトはビヒダスでないとダメ!」と生前言い続けていたので、もちろんこれも昨日買ってきたビヒダスです。

近所のブックオフにある本を探しにいったら、お目当ての本はなかったのですが、かわりに上原美優さんの「10人兄弟貧乏アイドル」があったので買いました。こうした本はゴーストライターが書く場合も少なくないとは業界ではよく言われることですが、この本はどうなのでしょうね・・・本人が書いたにしても事務所による演出は多少は混じっていると考えた方がいいかもしれません。でも心の奥底の想いはにじみ出ているような感じはします。

最近、しめっぽい話題ばかりなので、敢えて今朝作ったCGも載せておきます。これは先日の授業である小学生が電磁石の勉強として作ったロボット。手には鉛筆を持たせられると。実際に動かしてみるとなんだか鉛筆を持ちながら「勉強しろー」と迫ってくるような雰囲気。「こんなのが 算数しろー なんて言いながら追いかけてくる夢なんて見たらコワイかもね」なんていう話をしたのをCGで具現化してみました。


社会人クラスは仕事の都合で欠席という常連メンバーも多かったのですが、やはりかなり久しぶりのT・I君や、小学校は違うけど参加という二人の女の子などで盛り上がりました。

と、ここで余震。最近小さな余震が頻発していたのですがその中では大きめです。(このあたりは震度3くらいかな???)


(13日 朝)
私はほとんど存じ上げていなかったのですが「貧乏アイドル」というふれこみの上原美優さんという方が自殺したということで朝の情報番組で特集されています。みんなが悲しんでくれるのか確かめたくて自殺未遂をしたこともあると・・・私も結構似たようなことを小学校の高学年あたりから数年間に渡って考えていた時期があるので(実行には移さなかったので未遂にすらなりませんでしたが、あれこれシュミレーションはする日々でした)なんだか他人事ではない気がしながら観ていました。

ゆうべもまたあることで「自分はやっぱり生まれてきてはいけなかったのか」「所詮、使い捨てカイロ」と何度も自分を支配していた気持ちが激しく再燃することがあって・・・安眠できない日々がずっと続いているだけに、そうした想いにあっという間に意識世界が支配されてしまいます。

徹夜を二晩三晩として脳の中心がボワーッとしている時の状態に近くて、たとえば眠けはないのに先日は家庭教師の時に単純な二桁同士の掛け算の筆算を根本的に間違えていることになかなか気がつかなかったり、ゆうべは帰宅時にいつも走っている国道なのに「あれ?今自分はどこを走っているんだろう????」と分からなくなったり。相当まずい状態かも????

昨日は予定通り9時には向こうに着いて、妹と二人で家の中の仕分け。消臭の切り札もそれなりに効き目はありそうなので、今発酵させている第二弾を本格的に使おうと思っています。



(12日 AM1:00)現在0時50分。とりあえず11日が無事に過ぎたというのが正直な気持ちです。もちろん一寸先がみえないのが地震ですから、今こうしている最中にも、あるいは今後だって大きな余震が起きる可能性はほぼ確実にあるのかもしれませんが、11日に起きたかどうかは妙な思い込みを回避する上で大切ですから。もしも大きな余震が起きていたら、もう「11日説」は定着してしまったでしょう。

もっとも人によっては「11日に来ると分かっていた方がいい。準備ができるから」という意見もありました。でも、それだと逆に違う日には大いなる油断をしてしまい、仮にまた大きな余震が別の日に起きたときに「えー、11日じゃないのに!」となりかねません。

「想定外」に基準をおいたらきりがない、というのは一面ではもっともな意見ですが(ただし、今回の津波を想定外といって言い訳している某電力会社やエネルギー行政の関係者、専門家は、単に自分たちに都合のいいように過去の歴史を無視したのであって、想定外には当たらないと思っています)、でもやはり様々な場面を意識世界の中でシュミレーションして対策をいろいろとイメージしておくのも大事です。

身近なところではテスト対策なんかそうです。特に最近は「成果主義」の横行で、普段のテストは事前に配っているプリントやワークとほぼ同じ問題ばかりを出す傾向がますます強まっています。その結果、少しでもひねった問題を出題すると生徒や親から「習っていないことを出題した」とクレームがつくことも増えてきているようです。

だから「中身は理解せずに解き方を丸暗記」しさえしていれば成績は良くなる・・・ところが中3の2学期以降の実力テストや入試、高校の全国模試などでは苦戦するようになる・・・当然ですよね。今までテストでいい点をとれたのは「事前に問題を教えてもらっていた」からなのですから。(私はそれを 時間差カンニングのようなもの と呼んでいます)

そんな子ども時代を送っていた世代が世の中を動かす中心になっていったら、ますます企業も行政も政治も学者の世界も「想定外」の言い訳ばかりきかれるようになっていくんでしょうね。

ただ、そんな今の世の中でもホンモノ志向の子どもが存在していることも事実です。仮に今は現代的風潮に染まってしまっていても、人間が本来に持つ知的好奇心が甦る子もいます。そんな子が一人でも増えるように願って超微力ながら私も貢献したいと思っているわけです。

今日は夜が明けたら東京へでかけて母の住んでいたところへ行く予定です。通常の消臭剤が全くといっていいほど無力なので「におい対策」の切り札(?)と私が勝手に位置づけて、この1週間かけて仕込んだものを持参して・・・。効果はあるでしょうか???



(11日 朝)久しぶりにチョコレートさんと対話。有意義な時間を過ごすことができました。

先週の社会人クラスの時に田植えを終えた周辺の田んぼからカエルの大合唱が聞こえてきて大変ににぎやかだったのですが、その時にチョコレートさんのお姉ちゃんが「うちのまわりは今年は静か」と言っていました。その周辺地区は地震の影響で水の供給がうまくできなくていまだに水田に水がはれず、田植えが大幅に遅れているのだと言っていました。

それで一昨日の夜、家庭教師の帰りに茨城町のそのあたりも車で走ってみたのですが、確かに静か。田植えが終わっているあたりは大合唱なのに、その地区は遠くの田んぼからかすかに鳴き声が聞こえてくるのみです。

これは昨日の昼間撮ったものですが、水をはりはじめた田んぼもあれば、はる準備もできていないようなところも目立ちました。


この時期にカエルの鳴き声がしないというのは怖いことですよね。秋の収穫がどうなるのか未知数ということですから。深刻な状況です。

被災地でこのところもっぱらの話題の一つが「11日」ということです。震災が起きたのも3月11日。上原先生の命日でもあった4月11日にも大きな余震が起きていて・・・今月も起きるのではないかと・・・。私の周囲でも携帯などに充電しなおした、車にガソリンを入れた・・・等々の話をけっこう耳にします。

かく言う私もゆうべは強いゆれがあったら危険度の高い普段の寝床ではなくてリブマックスで寝ていました。寝たといってもこのところ余震だけではなく、あのフラッシュバックもあって昼間は意識がボーッとしてしまうくらい心身ともにかなり低下しているのに、ぐっすりと眠れない悪循環で、ゆうべも寝ていたような寝ていないようなというまま明け方までいました。そこへ4時22分の緊急地震速報で携帯電話がけたたましくなりはじめドキッ!!!実際にはゆれませんでしたが脈拍はやはり乱れてしまって・・・その何分かあとに今度は警報はならなかったですが、震度2くらいの地震。震度2でもゆれはじめは「また強いゆれになるのか???」という緊張感が一気に高まるのでやはりかなりのストレスになります。今日も一日中こんな気持ちで過ごさなければならないのはかなりしんどいです。

(10日 午前)ゆうべある大学生と先週の便りのテーマである「落ち着き」についてやりとりしました。「落ち着く」というと安定した状態・・・静的状態・・・日常でも何事もなく過ぎていく、というイメージがあります。

されには「思い通りにスイスイ人生が展開すればどんなにいいだろう」とか「できるだけ楽な仕事でたくさんのお金が入るといいな」とかいうのも未知なる変化に振り回されないでのんびり生きていけたらどんなに幸せだろうか・・・というあり得ない幻想に囚われたような生き方を、自らつかむのではなくて「誰かが教えてしてくれる」「何かが示してくれる」という他力で求めようという風潮が強い現代社会。

ゆうべの大学生は最近何でも願い事がかなうよう、という触れ込みである新興宗教に誘われたんだとか。でも話を聞けば聞くほどそんなことはあり得ないと感じたそうです。そしてそもそも「悩みも何もない人生なんてつまらないじゃないですか」と言っていました。

注意して欲しいのは、この発言は世間知らずで能天気な若者の発言ではないということです。私は小学生高学年の頃から知っていますが、本当に辛い時期が何度かあって、でもそれを(一時的には誰かに相談もしたにせよ)最終的には自らの力で必死にくぐりぬけてきた子です。それらの思い出も今は笑って話せるようになった上での境地からくる発言ですから重みがあります。


そもそも「願い通りになる」「思い通りの日常展開になる」というのが本当にいいことなのか。周囲の人たちが何でも自分の思い通りに行動してくれて振舞ってくれるのがいいことなのか。もしそんな人間にばかり囲まれて成長したら「超ワガママで自己中」な人間になってしまうでしょう。

そして誰もが願いがかなう世の中が、その宗教を信じれば実現すると・・・そしたら例えば高校生が全員その宗教を信じたら入試なんてどうなるんでしょうね。希望するところに無条件で誰でも入れるようになるんですかね。自分に対して「私の思い通りになって」と要求してきたことをお互いに受け入れることが実現するんですかね。

「他人には自分の思い通りになって欲しいけど、自分は誰かの思い通りになんて絶対なりたくない」という姿勢の人間が今以上に増えることになるでしょうし、そうなってお互いの欲望が衝突しあい「何でも望みがかなうようになる、って言ったじゃない!」と抗議されたら、その宗教の教祖様はどんなお言葉を信者に対して言うのでしょうか?????

私も病気をしたりしてこのような生活をしているために同様の触れ込みのいくつかの新興宗教(西洋系・東洋系いろいろ)に盛んに勧誘されたことがありますが、その時にも同様の疑問をぶつけています。そうすると大抵は「どうしてあなたは願い通りになる世の中を望まないのですか!願いが何でもかなうようになるんですよ!素晴らしいことだと思いませんか!!!!」とさらに語気を強められるばかりで、肝心なことに皆さん答えませんでしたね。

(9日 朝)「究極のぼんやり」ではなくて、単にこのところの疲れでボーッとしていて学習会だよりの更新が2週間もしていなかったことに今朝気がつきました。なので先週・先々週の2週分です。先週は「落ち着き」がテーマでしたが、もちろんこのことも「究極のぼんやり」と密接な関連はあります。

母の日にちなんで、なんてことは全く考えないで何十年も生きてきたわけですが、昨日はさすがに意識してしまっていて・・・小さい頃によく食卓にあがっていた母の得意料理を真似して何か作ってみようかとぼんやりとは考えていたのですが、ここ数週間、まともに調理をしないで既製品や茹でたうどん・ソバばかりだったことに象徴されるように「料理を作ろう」という気力がどうしても湧かずにいました。

それが午後になってある教え子と電話でいろいろと話しているうちに最後には気持ちがわいてきて、電話のあと、すぐにスーパーへ。ただ、大勢の親子連れなどに圧倒されているうちに気分が低下・・・何も買い物かごに入れられないまま相当長い間広い売り場を行ったりきたり・・・・。

最後は気をとりなおして買ってきました。選んだのはナポリタン。何十年もナポリタンの時には市販のレトルトを買ってきて、それに唐辛子の輪切りやケチャップを加えて味を変えて・・・という感じだったので、人参やたまねぎをみじん切りにしてからナポリタンを作る、というのは数十年ぶりです。


この前、ある番組でイタリアンの名店シェフが「ナポリタンだけは茹でたパスタをちょっとおいて使っています。その方が幼い頃に食べた懐かしい感じがでるもので」と言っていたのですが、私もそれは同感です。今回は母の味に近づけたかったので、出来立てから少し時間を置きました。ただ、懐かしい味とは微妙に違っていて・・・もちろんこれはこれで美味しかったのですが、例えば妹や弟に食べてもらっても「懐かしい」と共感してもらうにはもう少し太いパスタを使ったり、味付けを改善したりとする必要があります。

ずっと以前、昔よく食卓にあがったおかずを「伝授」ということを目的に母と作るということをしたことがあるのですが、きちんとメモをとりながら作らなかったので、細かいところはよく覚えていないんですよね。ただ、舌は記憶しているので、あれこれ試して「アッ、この感じ」というのを模索するしかありません。

(8日 午前)今日は母の日・・・この前も書きましたが、うちはそういったイベントを意識しない家だったので、大人になってからも意識せず、母の日だから何か贈るとか電話するとかいうのも何十年もなしでした。それなのにこうした事があるとスーパーで買い物をしていたって「5月8日は母の日」なんていうポスターがやたらと目に入ってしまう・・・妙なものです。

今まで気になんてしていなかったことと言えばもう一つ。サービスエリアに車をとめたら、ちょうどお隣が某電力会社の車でした。栃木ナンバーでしたが、特にマークや社名にテープをはってということはしていませんでした。こんなことも今だからこその意識です。

何を意識のアンテナにひっかけて、どの程度の強さで受信し、それを脳やイメージ世界、無意識世界にどんなしまい方をするのかで、やはり人間一人一人全く違う世界に住んでいる、それを実感させられます。またそれによって今後の人生展開も当然変化していくわけで・・・・それが素直に起これば起きるほど「ひぐらし・・・」や「某魔法アニメ」のように「宿命」と世間が思っているものでさえ、変化させられる・・・それが上原先生が児言態の研究を通して追いかけていた大きなテーマであり、自分も児言態の活動を続けている主要な動機の一つがそこにあります。

「宿命はかわらない部分」という定義をスピリチュアルカウンセラーの江原さんなんかも言っていますが、仮にその定義に従うならば「変わらない部分」と判定している自分自身の判定のしかたが、実は本当は変わりうる「運命」の部分なのに、「宿命だ」と思い込んでいる、決め付けている・・・そんなこともあるだろうなと、今回の母の件にまつわるいろんな人とのやりとりを通じて感じています。

現世で生きる人間知では、どんなことをしても本当に宿命が何なのかを完全把握することはできないようになっているのではないかと。そして日本古来からの神話的発想でいえば、それは「神様さえも分からない」・・・分からないから試行錯誤しながら人生を歩んでいく喜びがホンモノになる・・・そんな感じらしですから。(これは父の解説です)

昨日は帰宅してからどっと疲れが出てしまいました。今日は仕事がオフなので養生したいと思っています。

(7日 朝)調整難航・・・夜中までいろいろ・・・これから福島に車ででかけます。結論まではいかないと思いますが。

昨夜の社会人クラスでは早良親王のことをはじめとして「御霊信仰」の話が中心でした。西洋人からするとかなり訳のわからない発想です。(もちろん現代の日本人からみても)でもテロと向かい合う現代社会が考えなければならない大きな問題を考える上で大きな示唆を与えてくれる歴史的事実です。

一人の参加者が参加費を旧札で出してきました。なつかしいお札です。


でもこれを使ったら若い店員さんの中には「偽札?」と思う方もいるでしょうね。

(6日 午後)ゆうべから新たな展開というか課題が加わって連絡やら意見やらの調整ばかりです。でもやるっきゃない!

(5日 朝)今日はこどもの日・・・・せっかくのこどもの日という祝日なのに明るい話題で書けないタヌキです。

これから6時過ぎの電車で東京へ出かけて、妹や弟と具体的な打ち合わせをするために母が一人暮らしをしていた家に集まります・・・何だか複雑な心境。意図的にこどもの日を選んだわけではなく、連休中に一番都合のいい日がこの日だったということなのですが。

今回の震災で子どもが命を失った、あるいは親や家族・・・家や学校や友達を失った・・・そうしたことからとても「子どもの日」気分に浸れない方々がこれほどまでに一度にいらっしゃるということがここ数十年の間、日本にあったでしょうか。

本当は毎年・・・日々・・・どこかで不幸なことが起きていて、周囲の幸せそうなことをよそにじっと悲しみに耐えている人たちがいらっしゃるということも痛感させられます。例えば最近の例でいえば焼肉店の食中毒事件。子どもをはじめとして亡くなってしまった方々や家族のことを思うと・・・きっとみんなで一緒に食事をしていた時には笑顔で食べていて・・・まさかそのあとこんなことになるだろうとは・・・。

昨日、スーパーにいったらある家族(夫婦と子ども二人)でお母さんが何故か一人でイライラしまってくっていました。お父さんにもブツブツ文句を言いっぱなし。やがて4歳ぐらいの男の子が奇声をあげると「うるさいわね!!!」とお母さんは怒鳴ってその子の髪の毛をグッとわしづかみ・・・男の子は大泣き・・・。でもお兄ちゃんもお父さんも普通にしているところをみると多分それがこの家族の日常なのでしょうか・・・・。

お母さんにはそうした状況になってしまう何らかの積み重ねがあったのでしょうが、それにしてもね。こんな生活を毎日送っている子ども達も少なからずいる。

もちろん今日はあちこちに出かけたり、家でもご馳走を作ったりという過ごし方をされる方々もいて、そうした方々は自粛気分になどならずに存分に楽しんで頂きたいわけですが、そうした幸せの輪が何とか広がって欲しいと願わずにはいられません。

(4日 朝)あの連絡いらい初めて今回の事がらみの夢をみました。今の年齢で学生時代までに住んでいた団地に私も家族と共に住んでいることになっていて、近所の方々が知らせを受けて次々と挨拶に来てくれるという夢でした。

ちなみに、母のことは別にして、この連休中に連休中らしい教え子からのコンタクトやタヌキ邸への訪問は今年はなく、ちょっと拍子抜けというか、本音を言えば寂しい気持ちでいます。もっともそんなのよりももっと寂しい思いを私も母をはじめとして、独り暮らしだった頃の祖父などにもさせていたわけですが・・・・。

ブラックジャックのエピソードにもそんなのがあって、昔読んだ時にとっても切なく思ったことがあります。先日放送された「東京物語」もそうですね。


さて、このところしめっぽい話題ばかりなので、明るいのも一つ。毎朝「めざまし」と「スッキリ」を念のために録画しているのですが、昨日はその甲斐あって「ももいろクローバー Z 関連」のことをスッキリで観る事ができました。あの伝説のヒーロー初代仮面ライダー本郷猛を演じた藤岡弘さんと一緒のイベント。

一人で語る藤岡さんの熱い情熱的な雰囲気と、ももクロに囲まれてからのニコニコ顔の雰囲気との素直な落差がとっても面白かったです。個人的には杏果さんがもう少し全面に出てきて話すところも欲しかったですが・・・・

(3日 朝)「四十九日」には○○・・・というのをどこまでというのが現在の焦点の一つになっています。普通だったら他界して最初は気持ちの混乱や、葬儀やさまざまな届出でバタバタしていても、まあ何とか一段落という気持ちになった頃にあたるわけですが、うちの場合は推定の命日から数えての四十九日なのでバタバタの真っ最中にやってきてしまう感覚です。5日に東京へ出かけて妹や弟と今後のことを顔をつきあわせて話し合う予定なのですが、さて、どうなりますか。

昨日は毎年恒例の「鯉のぼりぶら下げ」をしました。ポールなどがないので軒下にぶら下げるんです。


大きなのは分校にあったもの。それから小さい2匹は岡本太郎記念館で購入したものです。鯉のぼりが元気よく泳いでいるというよりは、干物がぶら下がっているという雰囲気です。

(2日 朝)あれいらい調理らしい調理もほとんどしない日々が続いています。食事はとっていますが、佃煮とか切り落としの1パック100円〜200円の刺身とか・・・。気力が低下しているというだけでなく、フラッシュバックが起きるのでかなりおかずが限られてしまうんです。小さいながらも余震はそれなりにあって、やはりドキッとしてしまうし。

こうした日常がズルズルと続くのは負のスパイラルにますます落ち込んでいってしまうので良くはないと頭では分かっているのですが、世間がゴールデンウイークと騒いでいると、自分は特に独り生活に何も変化はないだけに余計に・・・たまたま昨日は買うものがあって大きな家電の店にいったのですが、大勢の家族連れで賑わっていました。

これがまた今の自分には思った以上にきつかったです。そんな自分に自分で驚いたのですが、そうなると余計にちょっとした買い物に出かけるのも家族連れが少ない場所や時間帯なんて考えてしまうから、何かね・・・。

今回の震災で家族や家や人間関係を失った方々が大勢いらして、私以上にみなさん「連休っていっても・・・」という気持ちになっていることでしょう。だからといってそうでない方々にまで「行楽を自粛してください」なんては言いません。大いに楽しんでリフレッシュしてほしいです。そのいい波動が自然にこちらにも伝わってくればね。

フルーツバスケットというかつての教え子であるドラヤキアイスさんに勧められてはまったコミックがあるのですが、やはりそうしたことを描いた印象的な場面があります。(その逆のことがあり得ると言うのを描いたエピソードが「ちびまるこ」の初期の頃にありましたね。永沢君を励ます会を開いて余計に重たい気分にさせてしまった丸尾君のお話)


(5月1日 朝)5月になったということもあるのでとまっていた入れ替えアルバムコーナーの更新を久しぶりにしました。

それから今朝、例の「万葉集占い」も。(目をつぶってパラパラとページをめくり指で押さえたところの和歌をメッセージとして受けとめ、何が示唆されているのかをあれこれと想像してみるという一種のイメージ遊びです)

出てきたのは歌番号942番の長歌。長歌なのでここに和歌そのものは載せませんが、内容としては妻などを残して長い旅に出ている山部赤人が、海上の船で詠んだ「望郷」の歌です。どこにいても我が家を思い続けるという歌。

しかも長歌に添えられている反歌には、「我が家のある懐かしい大和の方へ上って行く熊野の船が見える」ということも。熊野とは古代から「異界の国」とされてきた土地です。「船」は水の上の乗り物という以外に「魂を運ぶもの」というイメージもあります。

そんなことから考えると、ここ1週間の自分、そしてこれから母の意志と世間的な常識とをどう結びつけながら葬っていったらいいのかの指針を示唆されたような気がしました。詠み人と私自身を重ね合わせることもできるし、旅人を母と重ね合わせることもできるし・・・。

昨日、今日から5月だから「トトロ」にあやかってと書きましたが、あのトトロの中でサツキとメイの姉妹が母親を思い続ける姿勢を 故郷 と置き換えれば、まさにこの和歌とも重なってきます。それは私の立場が重なるというだけではなくて、母の立場からしても「望郷」という想いはベースにあるでしょうから。

そんな意味からいうと、嫁に出た立場であってもとりあえず今、実家であるここで祖父母の仏壇前に居られているのは常識的な手順とは大きく異なっていますが母にとってはいいことだったかな・・・・・。